第2回 松江歴史館の建設(2)
市長を辞め、常勤でなくなりましたので、空いた時間を主に野菜作りに費やすことにしました。今年は冬場3カ月を畑の土の天地返しを行いました。スコップを30センチ打ち込みそれを掘り返す。少しずつ気の遠くなるような作業、1反部全部掘り返しました。ジャガイモ、トマト、ナス、スイカ、インゲンなどをそこに植えましたが、目に見えるほど野菜の勢いが違ってきました。夏野菜が終わったら、その都度天地返しをしていこうと思います。
前回に続き歴史館設立の経緯です。用地買収が終わり、いよいよ建設。まず、基礎工事のため土地を掘り返しました。そうすると、宍道湖の湿地帯、堀尾期の地層、京極・松平期の地層がそれぞれはっきりと出現しました。最下層はシダが敷き詰められ湿地を固める当時の工夫が現れました。それぞれの層からは茶碗や櫛(くし)などの日用品が出てきました。こうした状況を受け、「この地層を中国西安の兵馬俑(へいばよう)のように残すべき」「歴史館はほかに作れ」という運動が起こりました。場所の決定は事柄の性格上広く市民の意見を聞いたものではなかったため、対応に苦慮しましたが、大阪城の近くにある大阪歴史博物館の方式を参考に、地層を一部保存し上から見えるようにしました。常設展示場の最後のコーナーにガラス張りの地層展示がありますが、これはそうした経緯からできたものです。
いよいよ歴史館が完成し、2011年3月19日に盛大なオープニング式典を開こうとしていました。ところが3.11の東日本大震災が発生し、日本中が自粛ムードになり、オープニング式典はこぢんまりした、地味なものとなり、出鼻を大きくくじかれてしまいました。その後もPRを自粛せざるを得ない状況が続きました。実は、捕らぬ狸の皮算用ではないですが、観覧者数の見込みを、お城の登閣者25万人(当時)のうち少なくとも10万人は入ると踏んでいました。しかし、これは大きく外れることになりました。一方、議会でも、観光振興部(当時)が所管する観光施設なのだから、管理費は入場料金でまかなうべきではないかと追及され、苦しい思いをしました。前回述べたように、いろいろな経緯から当初は観光振興部の所管としましたが、歴史館の性格は松江城や遊覧船のような観光施設ではなく、文化財の収蔵施設です。このことについては、今では議会でも一定の理解が得られるようになったのではないかと思います。
そうはいっても約40億円という多額な経費がかかった施設です。できるだけ多くの人に訪れてもらい、松江の歴史や文化についての理解を深める場として活用していただきたいと思っています。それには展示内容を質の高い、多くの人に興味を持ってもらえるものにしていくことが大切だと考えます。学芸員の質の向上に努めること、展示内容を専門家だけに任せるのではなく、広く意見を求めること、展示を含め歴史館の運営に対し厳しい意見をたくさんいただけるような仕組みをつくることなどなど、10周年を契機にこれからも歴史館の質の向上につとめていきたいと考えています。