第3回 日本の成り立ち(3)

2022.09.21コラム

 秋分の日が近づき季節の変化を感じます。私は毎日午後5時半頃から7時前まで5キロのウオーキングをしています。一月ほど前まではまだ日も明るく熱中症を心配するほどだったのに、今は汗はかきますが最後はまさに「誰そ彼」(たそがれ)となります。こうした体感と同時に夏場は感じなかった人生の秋を感じる季節でもあります。畑では盆以降土作りを終え、キャベツと白菜の苗を植え、人参、ほうれん草、小松菜、大根、カブの種を播きました。夏場と違い、快適な季候の中での栽培ですので、丁寧に世話をしようと思います。

 日本史を学ぶなかで疑問に感じてきたことがあります。それは日本という国がどのようにして生まれてきたのかということです。歴史の教科書を開くと、縄文、弥生時代を経て、小国が林立し、その後大和王権によって統一され、その象徴が天皇をまつる巨大古墳であるということが語られ、以後の歴史は天皇制を基盤としつつ、その上でどのような形で権力が発生衰退していくかということが記されています。藤原摂関政治、鎌倉、室町、戦国、江戸時代・・・。このように見ていくと、大和王権はどこから来て、どのようにして権力を統一したのかという点が不明だということが、最初の疑問が生ずる理由だということがわかります。

 自分たちのルーツがはっきりすれば、もっと自信を持って人生を生きることができるのにと考えるのは私だけでしょうか。この点、戦前は天孫降臨神話により日本の起源が語られ、神国日本という形で自信が植え付けられました。こうした根拠のない国家主義思想が太平洋戦争を引き起こしたという反動から、日本の成り立ちについては深く触れられないまま今日に至っています。私は文化の伝播同様、朝鮮半島との交流をもっと追求してみることが大事ではないかと考えています。例えば、浦項に伝わる神話(神様を乗せた土地が日本に引っ張られる、神様がいなくなって国中が真っ暗になるといった神話)、神武天皇の東征はなぜ日向から始まるのか(日向には亡命した百済皇族の墓がある)、高句麗好太王の碑(倭が新羅を征服した)、白村江の戦に4万もの大軍派兵(当時の日本の人口の1%)。朝鮮半島に日本のルーツともいえる場所、守らなければいけない権益があったのではないかとも考えられます。

 朝鮮半島との交流を物語るものとして近年取り上げられるものに、朝鮮半島南西部(現在の全羅南道、北道。古墳が築かれた時期には任那日本府が管理していたと言われ、その後百済が治めることとなった地域)に残る前方後円墳があります。1980年代以降現在までに14基が発見されていますが、5世紀後半から6世紀中葉の限られた時期に、限られた場所に集中していることが特徴です。糸魚川流域のヒスイが大量に出土していることから日本との深い交流がうかがえますが、日本独自といわれ、被葬者の権威を示すと言われる前方後円墳(日本では3~7世紀)が、朝鮮半島の限られた地域に、限られた年代になぜ集中して存在するのか、被葬者はどんな人か、日本のルーツの手がかりとなるのか今後の解明が待たれるところです。韓国との共同研究が必要ですが、戦前の日本統治がネックとなりなかなか進んでいないようです。韓国晋州市との交流も何度も停滞しました。しかし、私は日本のルーツは朝鮮半島にある、それを探求しようという共通視点に立てば、乗り越えられるのではないかと思います。同時に、天皇陵と言われる古代の前方後円墳の解明を、世界遺産に指定されたことを機に是非ともお願いしたい。これまでの歴史を覆す発見が必ずあるものと思います。ともすれば失いつつある日本人の自信を回復する契機となるものと思います。

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