第16回 秀吉の朝鮮出兵
~月見れば 千々にものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど~
10月に入り、急に秋らしい天気が続くようになり、なんとなくうきうきした気持ちになります。これも酷暑の夏が過ぎ去った安堵感からくるものなのでしょうか。また、この数年、夏の暑さから一遍に冬の寒さを迎え、秋を実感できなかったからかもしれません。しかし、一昔前までは、秋といえば、上記の和歌や童謡などでは悲しみやわびしさを表す季節ととらえるものが多かったように思います。春、夏と生きとし生けるものが成長する季節から、日差しが弱まり、すべてのものが枯れてしまう冬に向かう季節が秋だからそのようにとらえられているのでしょうか。秋のとらえ方、感じ方が変わって来たと思うのも、命の危険を感じるここ数年の夏の暑さのせいかもしれません。
畑では、盆過ぎから順次蒔いたり、植えたりしてきた人参、大根、カブ、ほうれん草、キャベツ、白菜、高菜、小松菜、シュンギク、ニンニク、ラッキョ、ジャガイモが順調に育っています。これから11月にかけて、イチゴ、玉ネギ、エンドウ、ソラマメを植える予定です。夏野菜は、酷暑のため、水やりなどの世話があまりできませんでしたので、秋冬野菜は丁寧に育てたいと思います。
今回は、朝鮮半島との交流について触れてみたいと思います。松江市は韓国の晋州市と友好都市提携をしていますが、晋州のキャラクターに「論介(ノンゲ)」という実在した人物がおり、秀吉の朝鮮出兵が関係しているという話があります。そのなかの一説によると、晋州が加藤清正の配下の武将貴田孫兵衛(毛谷村六助)らによって占領され、戦勝の宴が催された際に、ノンゲは覚悟を決め一計を案じ、孫兵衛にたらふく酒を飲ませ、酔っぱらったところで、外に涼みに出かけることを持ち掛けます。晋州の中を南江という大きな川が流れていますが、その川の中に平らな岩があり、そこに連れ出し、自分の腰ひもで孫兵衛と自分を縛り、もろともに深い川の中に身を投げたのです。
ノンゲの勇気ある行動をたたえ、彼女は今、晋州のキャラクターとなっているのです。また、ノンゲを祭った祠もあります。
ノンゲによって殺された貴田孫兵衛ですが、私の聞いたところでは、豊前の出身で、地元では、剣豪、親孝行、妻の父親の敵討ちをしたとして評判の人だそうです。日本では孝行息子の評判をとった人が、海を渡った地では酒におぼれ最期を遂げた、どうしてこのようなギャップが生じるのか、複雑な気持ちにさせられます。
一方で、これと真反対の話があります。降倭将軍沙也可の話です。その一説では同じく秀吉の朝鮮出兵の際、加藤清正の部下だった沙也可は「この戦争には大義がない」と考え、朝鮮側に投降し、以後、朝鮮軍に参加し、日本軍を撃退しました。織田信長によって滅ぼされた鈴木(雑賀)孫市の長男であったとも伝わる沙也可に、信長の家来であった秀吉を憎む気持ちがあったかもしれません。その後、朝鮮王から名前をもらい、朝鮮人として生涯を終え、今でも、その子孫が大邱市郊外に住んでいるということです。
2人の将軍のあまりにも対照的な話には、誇張があるようにも思えますが、いずれにしても、400年以上も前の話がいまだに語り継がれているということに、驚かされます。
私も、晋州の市会議員と雑談しているとき、「織田信長と天皇はどちらが偉かったのか」という質問をされたことがあります。一見、信長の残虐性などから、そのような質問をしてきたのかと思いましたが、実は、深い思いがあったのです。秀吉の朝鮮出兵は信長がもともと考えていたことで、朝鮮征服が目的ではなく、最終的には明を征服し、天皇を移そうと考えていたともいわれています。天皇を勝手に移すとは、では、朝鮮、中国を含めた大日本国の頂点にはだれが立つのか、信長か、信長はこれまでの天皇制を否定しようとしたのか…そうした思いが、先の質問となったものと思います。そこには、明国征服の先兵と考えられたこと、まさに、元寇の際、朝鮮が先兵として日本に送り込まれたこととが重なり、誇りが傷つけられた歴史を苦々しく思い出させるのだろうと私は思います。