第17回 神在月
11月も中旬を迎え、秋の終わり、冬の到来を感じるようになりました。畑では大根、春菊、ほうれん草、キャベツ、白菜、人参、カブ、小松菜、ニンニク、ラッキョウ、ジャガイモが順調に育っており、小豆、ショウガ、落花生がそろそろ収穫期を迎えています。大豆は今年も失敗しました。
1日に南高3期の喜寿の同窓会がありました。健康寿命が72歳ということですが、みんな元気なのにはびっくりしました。高校時代とは性格がすっかり変わってしまった人もいて、時の流れ、人生の年輪を感じさせられました。激しい時代の移り変わりの中で、みんな一生懸命生きてきたのだなー。私はあいさつの中で、「残念だが、残された時間は少ない。さらに、高齢化に伴いつらい時間を過ごさなければいけなくなる。だからこそ、毎日、短時間でも何かに熱心に打ち込むことで充実した人生を過ごしたい」と話しました。
さて、11月は旧暦の10月、神無月、こちらでは神在月です。全国の神様が佐太神社に集まった後、出雲大社に集まり会議をされるというものです。なぜ、伊勢神宮ではなく、出雲に集まるのか不思議です。
一方、全国には出雲系の神様をまつる神社がたくさんあります。武蔵一宮氷川神社、信濃國一之宮諏訪大社、大和国一之宮三輪明神大神神社、京都の八坂神社、四国金刀比羅宮、博多山笠の櫛田神社などです。このことは何を意味するのかです。
また、くにびき神話ではオミズヌ神がくにびきで美穂の岬(現 美保関)を高志の珠洲岬(現 石川県珠洲市)からひいてきたことになっていますが、美保神社境外末社の地主社と珠洲市の須須神社の祭神が同じミホススミと言われており、大国主と高志の奴奈川姫との間に生まれたのがミホススミです。出雲と高志は何らかのつながりがあったということなのだと思います。私が住んでいるのは玉湯町林ですが、この林という地名は出雲風土記によれば大国主が高志の国を平定する際に、樹木が盛んに繁茂しているさまを見て「わが心ハヤシ」といったことから地名が付いたといわれています。平定したかどうかは別として、このことから見ても、高志の国とのつながりがうかがえます。
私は、京都府の総務部長をしていた時に、当時京都府立大学長をなさっておられた門脇禎二先生と親しくさせていただきました。先生は古代史の権威で、出雲に5世紀から6世紀にかけて「イツモ王国」が存在したという説を唱えておられました。そして、くにびき神話こそイツモ王国の建国神話であると述べておられます。イツモ王国は当初出雲東部に起こり、その後、キビの勢力が侵攻していた出雲西部をキビの衰えとともにその勢力下においたものの、最終的にはヤマトに服従することとなり、その首長が出雲国造として組み込まれたものとされています。私は平成5年4月に京都府を去りましたが、その際に、先生から餞別として先生の著書「検証古代の出雲」と「日本海域の古代史」をいただきました。その中でそうした説を詳しく展開しておられます。なお、くにびき神話の中で、高志や新羅から土地を引っ張ってきたということに関しては、当時のイツモ王国がそうした地域と盛んに交流していたことの表れだろうと述べておられます。
これらのことから、神在月の言い伝えを考えてみると、出雲には5世紀から6世紀にかけて強力な勢力を持つ王国が存在し、高志や新羅などと日本海を介して盛んに交流が行われ、いろいろな地域からたくさんの人々が出雲を訪れたことを表しているものと考えられるのではないでしょうか。大国主の高志征伐の神話から、高志との戦争などもあったかもしれませんが、王国の勢力の盛んなことを誇っているものではないかと思います。そういえば、旧新羅地域には夫婦の神様が流されて、大社のあたりに到着し、そこで、稲作や養蚕などを教えたという神話が残っていますが、これなどもそうした交流の事実を物語るものではないでしょうか。