第23回 韓国の古墳を巡る旅

2024.05.15コラム

 ゴールデンウイーク中にほとんどの野菜の苗を植え終わりました。スイカはいつもツルが途中で枯れてしまうので、今年こそはと考えて、苗の周りにニラを植えました。ニラはツル枯れ病の原因となる菌を抑える働きをするそうです。

 先月の12日から17日まで韓国〈光州(こうしゅう)、羅州(らしゅう)、公州(こうしゅう)、扶余(ふよ)〉を旅行してきました。今回の旅行は旅行会社に頼らない個人旅行でしたので、言葉が通じなくて戸惑ったり、思いもよらないところで時間を費やしたりの連続でした。しかし、無い知恵を絞って難局を切り抜けることで、日頃たるんでいた脳の活性化には大いに効果があったのではないかと思います。また行く先々で経験した韓国の人たちの親切は忘れることができません。個人旅行でなければ味わえない貴重な体験でした。自分の気力体力を鍛えるためにも、再び外国旅行にチャレンジしてみたいと思っています。そのためには、事前の勉強や綿密な準備が必要なことは言うまでもありません。

 今回の旅行は、古墳、特に、韓国で発見された日本列島の前方後円墳と同じ墳形の古墳がどんなところに作られているのか、韓国独自の同時代の古墳との位置関係はどうなのか、したがって、前方後円墳に埋葬されている人物は同時代の韓国独自の古墳に祭られている人たちと同列もしくは近しい関係にあったのかどうかといったことが推察できればいいなと考えてのことでした。

 光州と羅州は朝鮮半島の南西部にあり、朝鮮半島を流れる河川、栄山江(えいさんこう)が作り出した広大な平野部にできた拠点です。この地域は百済に支配されるまでは馬韓(ばかん)と呼ばれ、小権力が群立していたところです。ここでは、国立羅州博物館の周辺の新村里古墳群、徳山里古墳群、少し離れたところにある伏岩里古墳群など甕棺墓(かめかんぼ)を特徴とする馬韓時代の古墳が多数存在し、その中からは権力を示す黄金の冠などが出土しています。しかし、前方後円墳はその古墳群にはなく、光州市の郊外農村部の明花洞古墳や中心部の月桂洞1,2号墳のように少し離れたところに存在しているように思いました。

 百済がこの地域を支配するのは5世紀の後半から6世紀の前半にかけてですが、不思議なことに、この地域の前方後円墳も5世紀後半から6世紀前半に作られ、その後は作られなくなります。前方後円墳に埋葬されている人物が倭(日本)人あるいは倭と密接に関係する人物であるように思われますが、馬韓の権力に近い人なのか百済に近い人なのかよく分かりません。

 この時代は百済の武寧王(ぶねいおう)とその子の聖明王(せいめいおう)の時代で、日本との関係でいえば仏教や漢字が日本に伝わり、関係が最も密接だった時代です。百済が馬韓地域を徐々に支配していき、聖明王の時代に馬韓地域を支配下におさめ新羅と国境を接することになり、王はその新羅との戦でなくなっています。また、その少し後に任那(みまな)日本府が新羅に滅ぼされています。

 このようにみていくと、韓国の前方後円墳に埋葬されている人物は、百済に近い人物だったのではないかと思います。どうして6世紀後半には前方後円墳が姿を消すのかはよく分かりませんが、聖明王の死や任那の滅亡を境に、対新羅との関係において倭と百済との関係はより近しいものになっていったものの、百済が衰退局面に入り、倭から人を派遣することはなくなっていき、前方後円墳に埋葬されている人物の子孫も百済に同化していったのではないかと推察します。

 光州と羅州の視察後、韓国の中西部に位置する公州と扶余を訪れました。いずれも百済の都があったところです。公州には武寧王の、扶余にはその子の聖明王の巨大な銅像が建てられていました。この地域ではこの2人の王が今なお尊敬されていることが分かります。扶余では白馬江(はくばこう)遊覧が人気で、中でも、百済が滅んだ時に宮女3千人(?)が身を投げたといわれる落花岩がメインです。別の船でしたが、10数名の女性客すべてが日本人だったのにはびっくりしました。日本人に人気の観光スポットになっているのですね。なお、私は白馬江=白村江と思っていたのですが、正確には白馬江〈錦江(きんこう)〉が黄海に流れ出る河口周辺がそうではないかと言われているそうです。それにしても、一度滅びた国の百済を再興させるために、日本は4万ともいわれる大軍をはるばる船を使って送り込んだのはなぜかという疑問は、今回の旅行では解けませんでした。

<前コラムトップ|次>