第22回 出会いの季節
三寒四温で気温が乱高下していましたが、先月の終わりごろから暖かい日が続くようになりました。畑はすべて耕し終えて、連休前後からの夏野菜の栽培を待つまでとなりました。
4月は新たな出会いの季節です。昭和42年4月、一年間の浪人生活に別れを告げ、念願の東京大学に入学を果たすことができました。早速、クラブ活動を行おうと思い、同郷で一緒に入学した友人が勧めるままに、クラシックギタークラブに入りました。しかし、なかなか上達しないため、自然と足が遠のいていきました。そんな時、同じクラスのH君から誘いがあり、弁論部をのぞいてみることにしました。第一高等学校・東京大学弁論部といういかめしい名前で、戦前からの弁論部を引き継ぐ伝統のある部でした。H君は福島出身で、高校時代から弁論活動をしていましたが、私は人前で話すなどということはしたこともない人間でしたので、ためらいがありました。
その弁論部に同じ学年のA君がいました。彼は群馬の高崎出身で、やはり高校時代、弁論部で活躍していたそうです。初めて会ったとき、これが同い年の人間かと思うほど、落ち着きがあり、世間慣れしていました。後から聞いたところによると、彼のうちは古くから高崎で病院を経営する家で、医者のお父さんは、経営はお母さん任せ。自然、お母さんは息子を頼りにすることとなり、しっかりせざるを得なくなったと言っていました。私は、こんな人たちに交じってうまくやっていけるだろうかと不安になりましたが、これまでの自分を変えていくチャンスだ。逃げないで、ぶつかってみようと一念発起しました。A君とは同い年でも人生経験が違う先輩と思って接してみようと考えました。こうした思いは、私という人間を変える転機になったように思います。
A君にはその後、いろいろな場面で私を引っ張ってくれたように思います。彼には高校時代から付き合っている彼女がいました。大学2年生の時から、大学紛争が始まり、暇を持て余していましたが、3年生の夏に、利根川が近くを流れる彼女の実家に弁論部の人たちや彼女の大学の友人たちが集まり、合宿をしました。その時に初めて、彼女の妹と出会いました。それが妻との馴れ初めです。その後、A君は彼女と結婚し、ほどなく、私も妹とゴールインしました。つまり、A君と私は妻同士が姉妹、義理の兄弟となったわけです。大学を卒業後、A君は建設省に、私は自治省にそれぞれ入省しましたが、何年か後、A君が島根県の土木部監理課長で赴任しました。私の実家に、家族でちょくちょく出かけてきたようです。
先日、A君の奥さん(つまり私の義理の姉)からA君が急逝したと電話がありました。突然のことで、驚きました。急激に進行するがんだったとのこと。本人はどんな思いで死を見つめたのでしょうか。さぞかし辛かったことと思います。
A君との出会いが、私のその後の、そして今の人生を形作ってくれたといっても過言ではありません。A君と出会わなければ、今の自分はありません。心からの感謝をささげ、ご冥福をお祈りします。