第8回 福祉行政の移り変わり
先月下旬の大雪は2011年初のものに次ぐものでした。車の免許を持たないため、文字通り1週間家の中に缶詰めとなりました。畑も雪で埋まってしまい、野菜を採りにいけませんでした。こんな大雪はこれで最後にしてもらいたいものです。
児童手当の所得制限措置について国会で論戦が行われていましたが、その中で、自民党が10年前所得制限を復活させたことの是非が取り上げられていました。こうした議論が行われるのも、少子化が日本の国力低下に深刻なダメージを与えるという意識が強くなってきたからにほかなりません。このように福祉への対応は社会経済の変化、それに伴う人々の意識の変化が大きく影響していることが分かります。私はそれを身をもって経験した一人です。今回はそのことについて、触れてみたいと思います。
私が大学生だったのは昭和40年代前半でした。当時、東京は美濃部都政が始まったころ、彼の粘っこいしゃべり方になんとなく違和感を持っていました。それを利用し、大ヒットになった歌が「走れコウタロー」でした。ソルティー・シュガーというグループが歌っており、その中で競馬の実況中継がとりいれられていましたが、その口調が都営競馬廃止を主張していた美濃部亮吉知事の物まねでした。一方、当時、私は東大弁論部に属していましたが、一年後輩に池田謙吉君がいました。池田君のことについてはまたの機会に触れることにしたいと思いますが、「走れコウタロー」の作詞、作曲、美濃部知事の物まねすべて彼がやっています。しかし、レコードの発売直前に、いわゆるポックリ病で亡くなってしまいました。先輩の私を平気で田舎者扱いするような、生意気なところがありましたが、大変才能豊かな人間で、政治家志望でしたので、いま生きていたら間違いなく政界のリーダーになっていただろうと思います。
美濃部都政は福祉を政策の一つに掲げていましたが、国はこれをバラマキ福祉といって批判していました。自治省でも、こんなバラマキができるのも財源が余っているからだとして、起債の許可などで締め付けを行っていました。他の府県に波及し、国に対し財源要求されることを恐れたからだと思います。また、当時は、高度成長期で一億総中流意識が蔓延しており、少子化や高齢化といったすべての人に訪れる福祉の課題は全く意識されていませんでした。したがって、働かざるもの食うべからずで、障がい者問題も各家庭で解決すべき問題と認識され、社会全体で解決するという考え方はありませんでした。そんな中で、行政が税金で対応しようという美濃部都政は理解されず受け入れられなかったことは当然でした。また、福祉は臨時的な経費ではなく、一度手を付けると毎年財源を確保しなければいけないということがあげられます。それは政策の中心に福祉を据えるということにもつながります。オリンピックでハード事業が整備された東京ならいざ知らず、まだまだハードのインフラ整備が遅れている地方では福祉を最優先にすることはできません。
状況が変わってきたのは1970年代終わりから1980年代に入ってからだと思います。このころ、盛んに言われたのは、成熟社会、ハードからソフトへでした。ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれるようになり、それまでの欧米にキャッチアップから日本独自の目標を立てることが求められるようになりました。そして、バブルの崩壊、格差社会、少子高齢化社会と社会の矛盾が表面化し、これからの日本は人口減少による国力低下をいかに防ぐかということが最大の課題だということがはっきりとしてきたのです。社会全体で高齢化問題、少子化問題を解決するということが国民全体から認識されるようになり、消費税を導入し福祉最優先の施策に完全に転換していったのです。
とはいっても、私は行政が個人の生活を支援することには限度があるべきだと思います。税金で支援するということはお金に限りがありますから、一定の基準が設けられることになります。これが進めば、行政が個人の生活を管理する、いわゆる管理社会になる恐れがあります。そのような社会はだれも望んではいません。逆に、規制がなくなれば国、社会は衰退し、個人の生活は方向性を失って浮遊することになります。個人あっての国、国あっての個人です。そのバランスをどのあたりに求めるか、それは、社会経済の発展に応じて変わっていくのではないでしょうか。