第29回 高岡市出張
玉ねぎの植え付けが終わり、あとは、ポットで育てているエンドウとソラマメを植えるだけとなりました。今年は、夏の高温で、カキやクリの出来はいまひとつでしたが、畑の作物は上々でした。もっとも、白菜に大きな芋虫のような虫が付き、あっという間に、スジだけを残して全滅してしまいました。途中まではいい構えでしたし、これまでこんなことは全くありませんでしたので、がっかりしました。来年は、対処方法を見つけ、何とかしたいと思っています。
先月、富山県高岡市に行ってきました。自治省の後輩で前高岡市長の高橋さんが、現在、高岡法科大学の教授をしておられ、学生に私の市長の経験を話してくれと言われ、招かれたものです。
高岡市は富山市に次ぐ人口16万の市で、能登半島の付け根に位置しています。高岡市は何といっても銅製品が有名で、全国の9割以上のシェアを誇っています。また、古代には国府が置かれたところでもあり、大伴家持が国司として赴任したことから、万葉の里を名乗っています。
高橋さんの案内で初めて分かったことですが、江戸時代までは加賀藩に属していたそうです。加賀藩の2代藩主がここに高岡城を築き、城下町として出発しましたが、一国一城令(1615年)により廃城となり、商人町として発展することになり、さらに、明治の廃藩置県により、富山県に属することとなりました。そのため、高岡は金沢などの関西の文化圏に近く、富山は関東文化圏に近いという違いがあるそうです。同じ富山県でも両市は気質や言葉も違いがあるようで、この点は、島根県の出雲と石見の関係によく似ているかもしれません。府県制ができて130年ほどになりますが、その倍の260年続いた藩に比べると、まだ一つのまとまった文化が生み出されてはいないように思います。石破政権ができて、東京一極集中是正や新たな地方創生が言われていますが、府県制を廃止して、昔の藩単位の市を作り出す(廃県置藩)という考えも一理あるような気がしてきました。
高岡は、わずかな期間とはいえ、お城が築かれて周辺に武家屋敷が整備されたそうです。しかし、廃城となり、武士たちは金沢に引き上げてしまいましたので、空き家街が出現しました。そこで、加賀藩では、高岡を商工業都市として再興することとし、銅器や漆器の生産を奨励し、一方で、空き家となった武家屋敷は商人に譲渡したそうです。こうして発展してきた高岡ですが、明治以降徐々に衰退していきました。最近、昔の商人街を外観はそのままにして、内部をモダンな雰囲気のものに改装する動きが出ているそうです。私が夕食をごちそうになったところも、その一つで、広大な庭や蔵をうまく活用したレストランとなっていました。これを経営しているのは若い夫婦でしたが、彼らの若い感性が、食事はもとより、店内のインテリアにも生かされていると感じました。
大学では、90分話をしました。当所どんな組み立てで話をするか考えましたが、結局、市長就任から退任するまでの体験について感想などを交えて話しました。しかし、考えてみれば、松江市のことを知らず、また、興味もない人たちに松江のことを話すのは無茶だったなと思いました。やはり、学生の反応は、まったくと言っていいほどありませんでした。後になって反省しても遅いのですが、国宝化といった自分が一番感動した出来事を、自分の思いを中心に話してあげれば、相手に響いたのではないかと思いました。事実を正確に伝えることが求められているのではなく、こうした出来事があったけれど、その時自分はこう感じた、心を揺さぶられたということを伝えれば、聞く人の心にも響くものがあるのではないかと思います。