第19回 明治6年の松江城博覧会

2024.01.17コラム

 令和6年(2024)早々大きな災害と事故が続きました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害にあわれた方々に対しお見舞い申し上げます。

 それにしても今回の地震の被災地である珠洲市はミホススミの神を通じて松江市とは姉妹都市の縁組をしています。私も市長時代珠洲市を訪れ、泉谷市長はじめ市民の皆さんに歓待していただきました。能登半島の東端に立ったときは感動しました。また、松江市にも市長以下お越しいただき、名物の鍋料理をご披露いただきました。一日も早い復興を願っています。泉谷市長さん、体調にはくれぐれもご注意ください。

 1月26日から、松江歴史館では、「明治時代のサムライたち」を開催します。明治4年(1871)、廃藩置県となり、それまで松江藩の藩士だった人たちが、禄を失い、その後どのような人生を歩んだのかを見つめる展示です。たくさんの皆さんのお越しをお待ちしています。

 その展示の中で、明治6年(1873)、松江城(本丸、二の丸)を会場に博覧会が開催されたことが取り上げられています。藩士たちの勤務先であり、松江藩の権威の象徴だったところが、廃藩置県直後、どのような利用がなされたのかを伝えようとするものです。幹事は松江の経済界の人たちです。私が興味を持ったのは、何の目的で開催したのか、収益を何に使おうとしたのかということでした。明治6年といえば廃城令が出され、松江城も取り壊しの対象となり、明治8年(1875)には入札にかけられることとなっていました。

 ちょうど同じ明治6年、松本城では経済界の人たちが中心となって博覧会が開催され、その収益金で、お城を買い取り、解体を免れたのです。松江城は、180円で落札されたものの、高城権八、勝部本右衛門父子が同額で買い取り、危うく解体を免れました。問題なのは、お城を会場とした博覧会の開催目的は何だったのか、松本と同じく、お城の保全ではなかったのかということです。廃城前に一儲けしようと考えたり、収益金を自分たちの家業の収入や生活費に充てようと考えたりしたとすれば、あまりにも悲しいことです。不昧公をはじめとする歴代の藩主に対する尊敬の念はなかったのでしょうか。そうだとすると今の私たちの気持ちとあまりにも違います。

 この点は、松江市史でも明確にされていません。松江城が解体を免れたのは、高城や勝部だけの尽力によるものとは思えません。彼らにつながるたくさんの文化人、経済人の後押しがあったものと思いたいです。現に、明治25年(1892)の暴風雨により損害を被った天守が明治27年(1894)に修理されていますが、この時の費用は経済界の人たちが工面したものです。今後、この博覧会については調査が進められることを期待しています。

 それから150年たった今の松江。一畑百貨店の閉店に伴う駅前整備、県庁前の高層建築物などこれからの松江市のまちづくりに大きくかかわる動きがありますが、いまひとつ市や県、経済界はじめ市民の動きがはっきりしません。150年前の高城、勝部、経済界の人たちならどうするのでしょうか。

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