第18回 自治省の先輩 松本英昭さんとの思い出
今年も10日余りで暮れようとしています。コロナも5類となり、少しずつコロナ前の日常を取り戻してきた年でした。私も、市長を辞めてから初めて東京に出かけましたが、なんとなく、世の中の流れから取り残されたような気がしました。来年はもっと積極的に旅行に出かけ、いろいろ刺激を受けてみたいと思っています。
今年は春にジャガイモがイノシシにやられましたので、秋用のジャガイモを栽培したところ、ソフトボールのような大きなジャガイモが採れ、少し春の無念さを晴らすことができました。玉ねぎ、エンドウ、ソラマメは順調に冬を越えそうです。
今週に入って、急に気温が低下し、雪も降りました。インフルエンザも流行っているようですので、体調管理に万全を期し、元気に新しい年を迎えましょう。
元自治事務次官松本英昭さんがお亡くなりになりました。松本英昭さんといっても一般の方はご存じない方が多いかもしれませんが、地方自治法を勉強したことのある方なら知らない方はいないと思います。『新版 逐条地方自治法』の著者です。
松本さんは京都府綾部市の出身で、私の7年先輩ですが、初めてご一緒したのは財政局地方債課でした。今度、鹿児島からすごい人が課長補佐で帰ってくると専らのうわさでしたので、どんな人だろうかと調べてみたところ、大学時代は行政法の田中二郎ゼミに所属し、田中先生から大学に残らないかと言われたということでした。これは大変な人に仕えることになった、冷たい、秀才タイプの人だったら嫌だなどと考えていたところ、お会いするなり開口一番「やあ松浦君、これからよろしく」と先手を打たれてしまいました。早口で、甲高い声で、押しの強いエネルギッシュな人というのが第一印象でした。こうした性格を敬遠する人もいましたが、偉ぶるということのない人でしたし、人の意見をよく聞いてくれる人でした。仕事の仕方も丁寧に教えていただきましたので、いい上司に恵まれたと感じ、私とはどういうわけか波長が合いました。
ある時、当時、東大の助教授だった塩野宏氏を一緒にお訪ねしたことがありました。塩野先生は田中先生の女婿で、松本さんが願っていた田中先生の跡継ぎです。のちに美濃部達吉氏、田中二郎氏とつながる行政法の大家となられた方です。先生の初めての講義が私たちの年次でした。塩野先生が松本さんに尋ねられました。「望ましい公務員とは?」松本さんは即座に「創造力を持った人です。」と答えました。この場面は奇妙に今でも覚えていますが、それとなく私に聞かせたかったのではないかと思っています。
振り返ってみると、自治省の中で松本さんに部下として仕えた回数が最も多いのは私だろうと思います。それは偶然ではなく、私を引っ張り上げてやろうという意図からだったように思います。地方債課からしばらくは一緒に仕事をすることはありませんでしたが、次に一緒だったのは、私が行政局振興課長で松本さんが行政担当審議官の時でした。この時は、松本さんに指示され、住民基本台帳番号制度の研究に着手しました。それまでは、国民総背番号制度だといって批判されるのを恐れ、あまり検討が進められてきませんでしたが、本省の課長になって何か実績を上げたいと考えていた私は、躊躇なく突き進みました。これが、今ではマイナンバー制度として結実しています。いろいろ批判はありますが、国民総背番号制度という批判は皆無だと思います。松本さんという大きな支えがあったからできたのだと思います。
その後、松本さんは平成6年国土庁地方振興局長になられましたが、私は平成7年国土庁地方振興局総務課長になりました。それから、平成7年松本さんが自治省行政局長に、私は平成8年行政局行政課長になり、翌年行政担当審議官兼地方分権推進委員会事務局次長になりました。このように、私は松本さんの後を追いかけるように異動し、気が付くと、行政局を支える立場になっていました。
課長補佐と見習い(自治省幹部候補生の一般職員の時代のことをこのように言います。)との関係は、私の経験から言っても、局長と課長とか課長と課長補佐との関係などに比べ、結びつきが最も強いと思います。まだ仕事の仕方を知らない者をプロの職員として鍛え上げる関係ですので、仕事だけの関係ではなく、全人格的な結びつきが強いように思います。ですから、二人の性格が合わない場合は悲劇です。それはまた、課長補佐の評価にも響いてくるのです。というか、合わない場合が多いのではないかと思います。私の場合はどういうわけかうまく波長があったケースでした。今から考えると、自治省始まって以来の天才松本さんと気が合ったというのは奇跡的なことだったと思いますが、そのことが、その後の私の人生を変えていってくれたように思います。