第25回 出雲部で2番目の規模の前方後円墳

2024.07.17コラム

 9日から10日にかけて続いた豪雨は、7月の一月間で降る雨量だったということです。被害はなかったでしょうか。私は、6年前の7月6日から7日にかけて倉敷市真備町などで発生した西日本豪雨災害を思い出しました。あの時の天気予報は、梅雨前線が松江付近を通過するため、松江市では深夜から明け方にかけて大変な豪雨が予想されるというもので、市役所では、防災部を中心にして徹夜の警戒態勢をとることにしました。しかし、予想された雨は全く降らず、朝のニュースで、真備町をはじめ山陽一帯の災害を知ったのです。これは、予想された梅雨前線が山陰地方ではなく山陽側に南下停滞したためでした。今回は、梅雨前線が日本海側に停滞し、豪雨をもたらしました。梅雨前線のちょっとした位置関係で、どこでも豪雨災害の危険性があるということを、この2つの豪雨は示しています。豪雨災害は7月に集中しています。これからも梅雨前線の動きに細心の注意を払っていきたいものです。

 夏野菜は好調です。スイカは、この時期になるとツルが急に枯れてしまい、実り始めた実が育たず、腐ってしまうことの繰り返しでしたが、今年は3つの苗から6個の実が付き、7月の中旬から収穫できそうです。こんなことは、20年以上野菜作りをやってきて初めてのことで、うれしくて仕方ありません。根元に水がたまらないように工夫したことがよかったのかなと思い、自信につながります。

 先日、玉湯町で全長81メートルという前方後円墳が発見されたというニュースに接しました。規模は出雲部では2番目の大きさだそうです。一般的に、古墳は大和朝廷から見た身分の優劣を示すものというのが従来からの通説で、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の順で優劣が決まり、同じ古墳では規模によって優劣が決まるとされています。したがって、今回見つかった81メートルの前方後円墳は、出雲部では2番目に大きいわけですので、大和朝廷との関係では、現時点では、出雲部で2番目に身分の高い人が葬られているということになります。見つかった場所は、玉湯町林の根尾室山という地区ですが、ここは私の家から西北にあたるところで、子供のころ、室山(私たちは「もやま」と言っていました)にある親戚の家へよく遊びに出かけたものです。そんなところに大規模な古墳があったとは本当に驚きです。

 この玉湯町で発見された古墳は、前方後円墳を中心として、全部で24の古墳が存在しており、5つの支群から成り立っていることがわかっているそうです。前方後方墳が一か所と不明な形の古墳一か所とあとは方墳と円墳から成り立っています。私の家の近くにも円墳が4、5か所ありますが、5つの支群の1つではないかと思います。今は竹やぶになっていて、西に向かって一列に並んでいます。子供のころ、古墳の頂上(頂上を貫いて道がついています)あたりで、棒状の埴輪を発見したことがありますし、タケノコを掘っていると、古墳の一部と思われる石が出てくることがあります。

 私が住んでいる地域は玉湯町林別所というところですが、林という地名の由来として、大国主命が高志征伐に際して「わが心はやし」といったことからつけられたという話が残っています。昔は「拝志」という字を当てていたようです。こうしたことから見て、この辺りには相当有力な人が住んでいたのではないかと思います。そして、その人を中心にして、別所の地域まで、その部下となる人たちが昔から住んでいたのではないかと思います。この古墳がいつの時代のものかはこれから調べてみたいと思いますが、古墳時代(3世紀~7世紀頃)にはこのあたりは相当開けた地域だったのではないかと想像すると、何か誇らしさを感じます。

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