第11回 谷中・根津・千駄木周辺の地域の移り変わり

2023.05.17コラム

 5月に入り、田んぼには一斉に水が張られ、山は若葉でおおわれるようになりました。一年間で一番過ごしやすい時期を迎えています。連休を利用して、夏野菜の苗を植え付けました。ナス、トマト、スイカ、ウリ、ピーマン、サトイモ、サツマイモ、ショウガ、カボチャです。夏野菜はツルが伸びるものが多く、過酷な気候の中、管理が難しく、枯れてしまうことも、病気にかかることも度々です。時間もたっぷりとれるようになった今年こそは立派な成長を見届けたいと思います。一方、毎年種から育成するものが、トウモロコシ、キュウリ、インゲン、落花生ですが、先月の20日過ぎに種をまいたのに、なかなか芽が出ませんでした。連休が終わるころにやっと芽が出だしました。朝晩の寒さのせいかなと思います。本葉が出たものから畑に植えていこうと思います。 

 前回は浪人時代の話を書きましたので、今回はその続きのことを書きます。東京に出て住んだのは、台東区の谷中初音町というところの二階建ての木造アパートでした。私を含めて四家族が住んでいました。谷中はいわゆる下町で、戦後すぐに建てられた低層の木造住宅が密集したところで、銭湯も数軒ありました。「かぐや姫」というグループが歌っていた「神田川」の情景です。浪人時代は予備校がお茶の水にありましたので、山手線の日暮里駅を使いました。西日暮里が近いのですが、西日暮里駅ができたのは私が大学を卒業するころでした。日暮里駅を降りると、谷中墓地を左手に見ながら坂を上がっていくと、階段の下り坂があり、降りたところから谷中銀座が始まりました。坂のてっぺんからは夕日がよく見え、それを見ると故郷を思い、ホームシックになったものです。今では、その階段のことを「夕焼けだんだん」と言っているそうです。

 谷中銀座の中ごろから右手に入り、銭湯などが並ぶ細い路地をしばらく行くと、アパートにつきました。その頃の谷中銀座は飲食店や海苔、てんぷら、八百屋など日用品の店ばかりでした。谷中銀座がぶつかる通りが夜店通りという商店街、その外側が千駄木で、大塚から上野までの都電が走っていました。千駄木から上野に向かう途中を右手に折れ登っていく途中が根津です。坂を上りきったところが本郷、弥生町で、東大の建物にぶつかります。 

 現在では谷中、根津、千駄木をまとめて谷根千(やねせん)といっているそうです。下町情緒が残っていること、神社やお寺がたくさんあること、鷗外や漱石といった文豪が住み、その小説にもしばしば登場する団子坂などの名所が残っていることなどから、この地域を観光地として売り出すため、谷根千というネーミングを考え出したものです。谷中を離れて30年以上たったころに、住んでいたアパートや谷中銀座を訪れたことがあります。アパートはそのまま残っており、中にあげてもらいましたが、2階にはだれも住んでいませんでした。その後数年たってから再び訪れたときには建物そのものがなくなっており、付近には低層のマンションが建っていました。谷中銀座は昔からの店も残っていましたが、飲食店は残っておらず、大半は観光客向けの土産物屋などに変わっていました。昔を知る者にはこの商店街の移り変わりは大変興味深く覚えました。

 昔はその付近で生活する人のための商店街だったものが、住民の生活様式の変化に伴って生活用品を売る店は衰退し、今では外から来る観光客用の商店街に変わっているのです。住民の生活を支えるものから、観光に立脚した商店街になっている。このことは、一見さみしいことのように思えますが、地域のたくましさも感じます。まちづくりとはそのように変化するのが当たり前だと割り切り、歴史・文化を活かした観光ということにかじを切った商店街の英断に拍手を送りたいと思います。松江の商店街も衰退といわれて久しいのですが、松江の歴史や文化を研究して、その商店街が存在する地域の特徴をまず捉えることから始めたらいいのではないかと思います。 

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