第13回 歴代の助役・副市長(2)
7月に入って、朝早く、ヒグラシの声で目が覚めました。なんとも物悲しい声です。私は、ヒグラシは晩夏の頃に鳴くものだという先入観がありましたが、セミの中でも早い時期から鳴く種類だということを再発見しました。それにしても、昼間の声は清涼感にあふれていますが、早朝に聞く声は気持ちいいものではありません。
さて、歴代の助役副市長の話の続きです。2代目は小川正幸さん。小川さんは職員組合の委員長を務められた方です。水道局長を2期7年務められ、傘立てを新たに設置することなど何をするにも組合の了解がいるという長年の慣行を撤廃し、風通しをよくされた功績を買って副市長に任命しました。
小川さんには水道局長の前に市長部局の総務部長を務めていただきました。前任の総務部長の時から課題となっていた行財政改革を実行してもらいました。職員の給与水準を国家公務員との比較で示したラスパイレス指数が、常に全国のトップ10に入る原因となっていた公務員給与の「わたり」の廃止は、その大きな功績です。しかし、その裏にはかつて自分が率いた組合との壮絶な戦いがあったことを私は知っています。組合から見れば、裏切りとも映り、副市長となられた組合交渉の場でも、無視されるというつらい経験をされています。
また、小川さんが副市長の時代に、アメリカに端を発する大きな経済不況がありました。多数の失業者が発生し、この人たちを行政で対応することが求められました。私は数十名の人たちを採用すればいいかと考えていましたが、小川さんは100人単位を主張され、この際、松江市の取り組みを全国にアピールすべきだと熱っぽく訴えられました。結局、全国的に見ても圧倒的に多数の職員を採用することができたのです。
ちょうど同じ頃、島根原発1,2号機で多数の検査漏れが発覚しました。当時、原発は安全だという思い込みが職員の間に広がっていました。検査漏れの発覚により、何でも上に報告できる空気の醸成など、安全文化の醸成が求められました。小川さんはすぐに現場に行き、常に緊張感をもって運転に当たるよう説得されました。また、経産省の処分が行われた6月3日を「原子力安全文化の日」と定め、原子力館に鐘を設置し、毎年、社長がその鐘を鳴らし、安全への思いを新たにすることとなったのです。福島の事故が起こったのはその翌年の3月でした。
小川さんは、副市長の4年間を毅然とした姿勢で業務にあたっておられました。しかし、組合の様々な取り扱いは小川さんが委員長時代に当局に認めさせてきたものです。これをはぎ取っていくことに矛盾した気持ちはなかったのでしょうか。私は、小川さんという人は、時代というものを肌間隔で感じ取ることのできる稀有な人材ではないかと思います。委員長時代は高度成長期、財源もあった時代でした。しかし、今はバブルがはじけて30年、昔ほどの余裕はありません。こうした時代の移り変わりを肌で感じ取ることができる人だったように思います。
小川さんがよく言っておられたのは、用地買収の際の心得でした。いきなり玄関から入っていくのはだめ。相手は身構えてしまう。裏口から入って、世間話をし、気心を通わせなければいけない。苦労を重ねてこられた小川さんならではの言葉です。そういえば、小川さんの話し方には、大きく感心したり、笑いがあったりと人の気持ちをつかんで離さないところがありました。豪快かつ繊細、小川さんを語るにはこの言葉がぴったりのような気がします。