?> <特集>なぜ今「本能寺の変」?なぜ松江で開催? | 松江歴史館 - 松江城東隣・松江の歴史を紡ぐ場所 -

松江歴史館

2018.03.01 <特集>なぜ今「本能寺の変」?なぜ松江で開催?


松江歴史館で開催の特別展「本能寺の変―再考 何が明智光秀を決起させたか」(2月23日~4月8日)。「本能寺の変」といえば、天下統一を目前に控えた織田信長が、家臣の明智光秀に討たれた事件として、あまりに有名です。しかし、なぜ今「本能寺の変」なのでしょう?しかも松江とは関係なさそうな「本能寺の変」展をなぜ松江市の松江歴史館で開催するのでしょう?
歴史大好きな女の子・ゆみちゃんが担当学芸員の太郎さんに疑問をぶつけます。

ゆみ 最近、テレビや新聞で「本能寺の変」について新発見が相次いでいると話題になっているから今、「本能寺の変」展を開けば全国的に目立つから?松江歴史館の株も上がるし…。
そもそも「本能寺の変」って信長が家臣の光秀を足蹴にしたりしていじめたのを根に持って、光秀が信長を討ったということじゃないの?

太郎 う~ん、最近は反逆のわけが「光秀の恨み」説とはどうも違うんじゃないか、という意見が強くなっているよ。2017年9月に報道されたのは「本能寺の変」直後、明智光秀が紀州の反信長勢力の有力武将・土橋重治にあてて出した自筆の手紙が見つかり、その手紙には光秀が将軍・足利義昭に従って上洛戦の協力を約束していたとみられる内容がしたためてあったんだ。


光秀が死の前日に出した密書(岐阜・美濃加茂市民ミュージアム蔵)

ゆみ それはどんな意味を持つの?

太郎 この手紙からは、光秀が主君信長を葬って天下人を目指したのではなく当時、備後(広島県)鞆にいた将軍足利義昭の帰洛による室町幕府再興のために起こしたクーデターだったとみることもできるようになった。本能寺の変はこれが原因ではないかと言われているんだ。
この幕府再興説を唱えているのが、三重大学の藤田達生教授だよ。

ゆみ そんなクーデターを図るような内容だったら、こっそり渡さないといけないね…。

太郎 実物を見ると「こんなに小さいの!」と思うくらい小さな手紙で、折り畳むと縦約11cm、幅2cmの大きさになるよ。密書だよね。

ゆみ 変直後の緊迫した雰囲気が伝わるね。


▽将軍上洛への画策示す光秀の手紙と国宝太刀

太郎 この手紙は、これまで所有者の美濃加茂市民ミュージアム(岐阜県)以外では松江歴史館が初めての展示なんだ。

ゆみ 信長と対立して京都を追われ、備後(広島県)鞆にいた将軍義昭が上洛を果たすために密かに画策していたことがわかるね。

太郎 今回、将軍義昭が上洛に執念を燃やしていたことを示す「国宝」の太刀が出品されるよ。鞆にいた義昭が、上洛に協力するように、と薩摩の島津義久に送った倶利伽羅龍(くりからりゅう)を彫り込んだ鎌倉時代の豪刀なんだ。島津家も足利家の桐紋と島津家の家紋を配した拵(こしらえ)を後につくったほどで、鞆に落ちていたとはいえ、将軍としての威信を感じさせる太刀だよ。


【国宝】太刀 銘 康次(岐阜・一般財団法人光ミュージアム蔵)

これも、これまで所蔵者の一般財団法人光ミュージアム(岐阜県高山市)と2015年の九州国立博物館での展示以外、外に出ていないものなので、見ることが出来るのは貴重な経験となると思うよ。


糸巻太刀拵(岐阜・一般財団法人光ミュージアム蔵)

ゆみ 将軍の上洛を果たすための反逆だったのでは、ということなのね。

▽四国めぐる信長の方針転換が原因?

太郎 ほかにも反逆理由の説があって、近年、特に有力だとされるのが四国をめぐる動きだよ。長宗我部元親が支配していた四国を、織田信長が攻め落とすと方針転換したことが光秀反逆の動機となったとする説だね。この説は、随分昔から言われてはいたんだけど、2014年に岡山の林原美術館で発見された「石谷家文書」(いしがいけもんじょ)で、さらに注目されるようになった。

ゆみ どんな文書なの?


長宗我部元親書状(石谷家文書、岡山・林原美術館蔵)

太郎 本能寺の変は明智光秀が起こした事件だけど、光秀の重臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)が本能寺の変に深くかかわっていたことが分かっている。この利三の兄・頼辰(よりとき)が、この文書が残っていた石谷家に入る。石谷家は代々、室町将軍足利家の奉公衆といわれる将軍の側近の家で、長宗我部家とは関係が深く、この頼辰の父・石谷光政の娘、すなわち頼辰の義妹は、元親と結婚している。そして、石谷頼辰は使者となって、斎藤氏を通じて明智光秀や長宗我部元親らのパイプ役となっていたんだ。

ゆみ 石谷家は明智家と長宗我部家に欠かせない家だったのね。この家が光秀の反逆とどう関わるの?

太郎 信長は、四国を長宗我部元親に与えると約束していたのに、その約束を破り、四国を元親から取り上げる方針に転換したんだ。天正10年の5月上旬に信長の子供・信孝を三好康長の養子に入れて、四国を攻めるための渡海を命じた。讃岐は信孝に、阿波は康長に与えて、伊予・土佐は信長自身が出陣してから処遇を決めるというものだった。
長宗我部氏と明智光秀とは関係も深く、それまでの信長との融和的な関係も光秀あってのことだった。光秀は長宗我部元親と織田信長の武力衝突を避けようとしていた。しかし四国政策から光秀を外し、信孝に任せて攻撃する方針に転じたんだ。その四国への出撃直前に起こったのが本能寺の変だったわけだね。

ゆみ だからと言って、光秀が信長に反逆する必要があったの?

太郎 今回展示される「石谷家文書」の中の長宗我部元親書状は、6月2日の「本能寺の変」直前の5月21日に書かれ、光秀の下にいる斎藤利三に宛てた元親の心情を示す内容なんだ。信長の四国征伐への方針転換直後のもので、元親が信長の意向に従う旨を記した内容だよ。でもこの文書は、結局、変が起こったことにより、斎藤利三を通じて光秀のもとへは届かなかったと考えられているよ。

ゆみ だから使者を勤めていた石谷家に残ったのか。

太郎 四国政策の転換のみでは説明がつかないところが、まだ残された課題なんだけれどね。

▽なぜ松江で開催?


堀尾吉晴肖像画(京都・春光院蔵)

ゆみ 「本能寺の変」が信長に対する光秀の感情のもつれではなく、将軍・足利義昭の上洛を目指したため、あるいは信長の四国攻めへの政策転換が引き金になったのでは、というのは理解できたけど、今回の展示をどうして島根県の松江で開く必要があるの?

太郎 確かに、どうして松江と関係があるのか不思議に思うかも知れないね。でも、なかなか深いつながりがあるんだよ。今回の「本能寺の変」展の裏テーマは、松江城を築き「松江開府の祖」と呼ばれている堀尾吉晴なんだ。

ゆみ どんな関わりがあるの?

太郎 羽柴(豊臣)秀吉が信頼した家臣・堀尾吉晴は、実は信長の中国地方攻めのほとんどの戦いに参加していて、重要な場面で活躍しているんだ。尼子氏再興戦では尼子勝久や山中鹿介とともに加勢しているし、本能寺の変の前年の因幡鳥取城攻めにも参加している。本能寺の変を知った秀吉が、備中高松城の城主清水宗治一族の切腹によって戦を収め開城したときも、船上で切腹を見届ける役を吉晴が務めているんだ。本能寺の変直後の明智軍と羽柴軍が戦った山崎の戦いでも、光秀方の天王山を占拠したのが吉晴だった。

ゆみ 堀尾吉晴がそんなに活躍していたなんて知らなかった。

太郎 堀尾吉晴が建てた松江城が国宝になったけれど、秀吉の命で吉晴が造営奉行を勤めた柏原八幡宮の社殿が現存し重要文化財に指定されていることは、ほとんど知られていない。約10年後にしるされた造営記録は関連資料として重文なんだけど、これも出品されるし、天正10(1582)年11月に同宮へ田地を寄進した、堀尾吉晴が発給した現存最古の文書も出品されるよ。

ゆみ このあたりは松江にとっては見過ごすことのできない部分だよね。

太郎 このほかにも信長旧臣・太田牛一の自筆本で重要文化財になっている織田信長の一代記である「信長記」も展示される。ぜひこの機会を逃さずに見てほしいね。

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