第35回 松江城国宝化10周年
今年は松江城天守が国宝に指定されてちょうど10年となります。2015年5月15日、天守の下で万歳三唱し、喜びを爆発させました。あの時ほど心から嬉しく思ったことはありません。「もういつ死んでもいい」そう言った方のむき出しの発言がそれを物語っています。
国宝化の決め手の一つになったのは、祈祷札の発見でした。2010年に松江城調査研究委員会(西和夫委員長)が設置され、その議論の過程で「城戸論文(昭和41年)」の存在が取り上げられ、翌年の当初予算に祈祷札に500万円(先に大手門資料に懸賞金をかけていたので、併せて)の懸賞金をかけ、探すことになりました。あの頃の私は国宝化を公約に掲げたものの、案の定遅々として進まないことに焦りを感じていましたが、城戸論文は大きな光明でした。5年ほど前の奈良の長谷寺本堂の国宝昇格は棟札の発見が決め手となったということを文化庁の担当者から聞いていたからです。
城戸論文というのは、昭和41年、『仏教芸術』という雑誌の中で、城戸久さんが著した「松江城天守」という論文です。城戸さんは昭和12年に学術研究のため松江城天守の調査をされています。その際、天守4階にあった2つの祈祷札を写真に撮り、それを論文に載せています。そして論文の中で、「この祈祷札は建築年代を示す貴重な資料なのに松江城大修理報告書(昭和30年)には一言も触れられていないのはおかしい」といった趣旨のことを述べられています。
さて、40年ぶりに城戸論文の存在が明らかとなり、祈祷札探しがスタートしたのですが、現存するかどうかも不明で、難航していました。そうした中、市史編纂事業の調査の一環として神社仏閣の棟札調査が行われ、松江神社を調査する過程で、祈祷札が発見されたのでした。
こうしたことを踏まえ、遡って考えていくと、二つのことに行きつきます。一つは祈祷札の存在がいつまで引き継がれていたのかです。昭和25年から30年までの大修理の時には、報告書にも記載がないことから、天守にはすでに存在していなかった、また、存在すら忘れられていたということになります。ここで、城戸さんが昭和12年の調査の際、写真まで取っているということに着目すると、その調査報告書に何らかの記載があるかどうか、あるとすれば、当時の市当局はそれをどう受け止めたのか、天守に残しておくのは紛失の恐れがあるから松江神社に保管することにしたのか、それなのに、わずか10数年でその存在すら忘れられてしまったのはなぜか。この点は、今後の文化財保護のためにはぜひとも究明しておく必要があります。
もう一つは、城戸論文は松江市及び文化庁ではどのように受け継がれてきたのかということです。岡崎元市文化財課長は、松江城天守国宝指定記録集の中で、「文化庁に出向いたとき長谷寺が棟札の発見により国宝になったという話を聞いて、学生時代に読んだ城戸論文を思い出した。開府400年祭が始まる前の平成18年か19年ごろ会議でこれを話題に出し、調査したが、見付けられなかった」と述べておられます。ほぼ一貫して文化財行政に携わってこられた方の発言です。おそらく、市では論文発表以降全く着目されていなかったことがわかります。文化庁もあるいは知っていて、長谷寺の話を出してきたのかもしれませんが、もはや存在しないかもしれないと考え、強くは勧めなかったかもしれません。城戸論文が発表されたとき市や文化庁ではどのような反応があったのか。少なくとも当時の建築史、城郭の最高権威の発言です。まったくの無反応とはどういうことだったのでしょうか。関係者が多数おられたのではないかと思います。そうした人たちへの聞き取り調査をすべきではなかったのでしょうか。文化庁へ要望するたびに「新たな発見を」と言われてきているわけですから。当時のことを調べる必要がありそうです。
国宝化事業は市文化財行政の脆弱さを露呈してしまったかもしれません。しかし、機運醸成と地道な調査という官民挙げての国宝化推進事業がそれを補って余りある成果を上げたことは、今後の文化財行政推進に対し大きな教訓となったことと思います。